日本語の時空表現

 エチオピア切手。独特のアムハラ文字が見える。人物は最後の皇帝ハイレセラシエ。動物は一角獣のモデルともいわれるオリックス。

 21世紀がやってくる。新しい世紀であり、新しい千年紀である。しかし、世界には伝統的にキリスト教の支配下にありながら、2001年を2001年と解釈しないキリスト教国が一つだけある。エチオピアである。エチオピアは他のアフリカの国々の多くのように、ヨーロッパ人の布教を受けてキリスト教が広まったわけではない。キリスト教の普及はむしろヨーロッパより古いという独特な歴史を持つ国である。エチオピア暦では、グレゴリオ暦の2001年はまだ1993年ということになり、クリスマスも1月に行われるという。この国にマラソンの世界最高記録を長く保っていたデンシモという選手がいた。国際舞台に登場したとき、見かけが年齢と合わないので不思議がられたという。

 一つの方向にひたすら流れる時間は、人間にとってあまり面白みがない。3次元の存在である我々は、ただその流れに身を任せるのみで、空間のように自由に行き来することはできない。タイムトラベルは人類の夢だが、誰も未来からの旅人に出会ったことがない以上、何世紀になっても実現はしそうもない。ただ、頭の中でなら、人間は時間をも自由に行き来することができる。そのことは言葉にも反映しているが、その言葉は空間についての言葉を応用したものに過ぎず、用いられるのは基本的に「前」と「後」しかない。「3年前」というとき、我々は頭の中で3年前にさかのぼり、「3年後」というとき、想像力を働かせて3年後に身を置いている。

 群馬県に「六合」という村がある。これで「くに」と読む。名前の由来は、六つの村が合併したというだけのことに過ぎないが、これでなぜ「くに」と読むのだろうか? 「六合」とは、東西南北に上下を加えた6つの方角を示す漢語であるが、もとは仏典に由来する。6つの方角を合わせて人間の住む世界を示し、そこから「くに」という読み方も可能になるのである。しかし、この世界が3次元であることは確かだとしても、何を基準にして東西南北や上下を決めるのであろうか? 上下はこの地球上に住んでいる限り明白だろうが、東西南北が決まったのは、やはり太陽の存在を抜きには考えられない。む「ひがし」という言葉は、もとは「ひむかし」といった。「日に向う方角」という意味である。沖縄では東を「あがり」、西を西表島のように「いり」と表現する。

 東西南北という言葉が便利なのは、それが誰にとっても同じ方角をさすものとして会話が成り立つからである。しかし、前後左右という言葉となると、その人がどこにいてどっちを向いているかによって異なってくる。「まえ」という言葉は、それ以上分解できないように思われるが、実は「ま」と「へ」に分解できる。「ま」は「まぶた」という言葉に残るように「め」の古形(被覆形)であり、「へ」は、「いにしへ(去ってしまった方角)」という言葉が示すように方角を意味する。「目の方角」を意味する「まへ」の対義語として用いられる言葉は、昔は「尻の方角」を意味する「しりへ」であった。我々の世代なら誰でも知っている滝廉太郎の「箱根八里」という歌に、「前にそびえ、しりへに支ふ」とある。それにとって代わった「うしろ」も「う」は本来「む(身)」であり、「しろ」も「しり」の母音が入れ替わったものである。「む」が「う」に変わる例は、「むなぎ→うなぎ」などに見られる。全体に青っぽく腹の白い養殖ウナギと違い、天然ウナギは、全体に茶色っぽく、腹は黄色っぽい。

  「まえ」という言葉が時間に応用されると、不思議な現象が日本語では起きる。「3年前」といえば過去のことだが、「前向きに生きる」といえば未来志向で生きるということである。似たような言葉に「さき」というのがある。「太郎が次郎よりさきに来た」というときと、「3年もさきのことは分からない」というときとでは、ベクトルが正反対であることがわかるであろう。「さきざき心配だ」というときは未来をさし、「さっき(←さき)会った人」というときは過去をさしている。これは話し手の頭の中で、時間がどっち向きに流れているかによる違いである。現実とは異なり、頭の中では時間は、行き来できるものとなっている。ところで、このような言い方のもとは、空間についていうときにもすでにある。教師が一列に並んだ生徒を一人一人点検し、たとえば髪を染めている生徒がいたときに「前に出ろ」というのは、教師の向きからすれば逆である。これは、生徒の側に身を置いて言っているというより、場面全体の位置関係が教師の頭の中に入っているからである。

Millanimationsより。クリックするとリンク。 前後しかない時間と異なり、空間には上下もあれば左右もある。このような位置関係の把握に関して、日本語の表現は、ヨーロッパ諸語より大雑把な感じがする。「机にある」と言われても、机の上にあるのか、中にあるのか分からない。しかし、これを言い分けようと思えばできるのであって、言い分けなければ表現できないことにも別の不便がつきまとう。たとえば、英語では、「12月に」というときにはin、「12月31日に」というときにはon、「11時45分に」というときにはatと細かく使い分けなければならない。このatというのがむかし分かりにくかった覚えがあるが、要するに「~という点に」と理解すればいい。「東京に」は in Tokyo だが、小さな町村の場合はatを用いる。要するに、そこを広がりのあるところと捉えるかどうかの違いなのである。onはと言えば、ある日本人がイギリスの寝台車で若い女性の上段で寝ることになったとき、May I lie above you? というべきところをon youと言って大騒ぎされたという有名な話がある。onは接触しているということにポイントがある表現であり、左のアニメのような場合も、He works on the ceiling. (天井の上で働いている)といえばよい。こんなことは実際にはありえないが、「蝿が天井の上にとまっている」なら現実性がある。 

 クリスチャンならぬ身としては、キリスト教紀元を用いることにいささかの抵抗も感じるが、人類が一運命共同体となったいま、それを用いることはやむをえないであろう。21世紀が全人類にとって平和で幸福な世紀となることを祈りたい。(2000年大晦日脱稿)     

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