むかしの評論家に一部の学生の間で教祖的な人気を博していた吉本隆明がいた。ほんとうは「たかあき」と読むのだが、みんな「りゅうめい」と呼んでいた。若い世代には吉本ばななの父親というほうが通じがいいだろう。吉本の人気の秘密は、論敵を論破するときの歯切れよさ、小気味よさにあったのだが、一度だけ講演を聴いて意外に思った。話はあまり上手ではなく、むしろ口下手な印象だった。「民衆」と「知識人」という二分法は、今日すっかり境界がぼやけてしまった感があるが、当時はまだ実感をもって受け止められていた。吉本は、その違いを次のように説明していた。「民衆は話す。しかし、書くことはしない」と。 人間は書くことをはじめるよりずっと古くから話すことを始めた。話すことは生活に密着し、喜怒哀楽を伝え合うことで人と人をつないだり、切り離したりしてきた。しかし、書くことは、生活から一定の距離を置き、喜怒哀楽を排除するところに成立する。話す人は生活に密着していないことは話さない。しかし、書く人はあらゆることについて書きたがる。話す人にとって、書く人は別世界の人間であった。それが自分たちの世界に現われて「書くように話す」ときには、うっとうしい存在であった。同じころ学生に人気のあった「つげ義春」の漫画に、田舎の宿の主人が、いろいろなことに興味を示し質問したり感想を述べたりする都会の若者にうんざりして、「あんたはよくしゃべるねえ」といって、ごろんと寝てしまう場面があったのを覚えている。この場合、「しゃべる」とは、「書くように話す」ということであろう。知ったところで、どうにもならないことに興味を示す人種に、宿の主人はつきあいきれなかったのだろう。 幕末のころ、津軽藩士と薩摩藩士が謡曲で会話をした、という話が伝えられている。しかし、実際には、漢文訓読体のてにをはの部分を「ござる」というような口語的なものに置き換えて会話していたのであろう。どの地域に住み、どんな方言を話しているかにかかわらず、文章を書くときには、漢文訓読体か平安文学をもとにした和文、または両者の混交体という慣行が定着していたからこそ、「言文一致」は短期間での達成が可能だったのである。その際、和文ではなく漢文脈が選択されたのは、膨大に作られた欧米語の訳語が漢語であり、名詞中心の欧米の思想を紹介するのにも、同じく名詞中心の漢文が適していたためであろう。 問題は、新しい「文語」の文体をどのようなものにするかということで、「だ」体、「です」体、「である」体などが試みられたが、結局は「である」体に落ち着いた。このような試みが行われている間は、昔ながらの漢文訓読体がまだ主流であった。北村透谷や中江兆民など、明治期の評論の多くが漢文訓読体で書かれているのもそのためである。そして、新政府の権威を誇示する意味もあって、漢文訓読体は、「言文一致」後も用いられた。戦前の教育の基準とされた「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)など、漢文そのままといってよい。そして義務教育の中で、多くの人が新しい「文語」を覚え、「書くように話す」ことを余儀なくされることで、古い話し言葉は次第に姿を消していった。戦後におけるメディアの普及は、このような流れをいっそう加速した。
しかし、映像と音響が誰にでも手軽に利用できるようになった今日、状況にはいささかの違いが生じている。若者は、字ばかりの本よりは漫画を選ぶ。漫画をそのまま小説にしたような小説も多い。ネットの中では、ケータイ感覚の掲示板にいくらでも出会うことができる。このような状況が、書き言葉に新風を吹き込むことになる面も多いとは思うが、やはり、話すことと書くことは別のことなのだから、若者たちには、書き言葉の勉強もきちんとしてほしいと思う。 |