ヘボン式と訓令式

 日本語をローマ字で書き表すには2種類の方法がある。土屋という名前の子は、学校で自分の名前を Tutiya と書くと教わる。そのくせ、パスポートを取るときには Tsuchiya と書かないと認められない。学校で教わるのは訓令式であり、パスポートに記すのはヘボン式の表記法である。ヘボン式とは、幕末に宣教師として来日したアメリカの医師、James Cartis Hepburnが考案した表記法である。当時の日本人がこの姓をそのように聞き取ったのでヘボンとなったが、同じ一族からのちにハリウッド女優のキャサリン・ヘップバーン Katherine Hepburn(1907-2003)が出ているように、今日なら「ヘップバーン」とされるところである。なお、キャサリンは、玄人筋の間では同姓のオードリーよりも大女優としての評価が高い。

 一方、訓令式というのは、1885(明治18)年に田中舘愛橘(たなかだて・あいきつ、左の切手)が唱えた日本式とヘボン式(「標準式」と呼ばれた)との妥協の産物として、1937(昭和12)年に政府が定めたものである。しかし、訓令式は基本的には日本式であって、違うのは日本式で o とする「を」を wo とすること、日本式では区別されている「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」などを区別しない点くらいであり、戦後の仮名遣いの改革によって両者の差はほとんどなくなった。

 今の日本人は、年配の人を除けば、「チ」と「ティ」、「ツ」と「トゥ」の区別ができる。だから、むしろ訓令式の表記法のほうがおかしいと感じる人が多い。「シーズン」を「スィーズン」と発音する人はいないが、英語を習うとき、she と sea とを区別するのも、さほど難しくない。だから、ヘボン式で「シ」を shi と書くのも納得できる。違う発音なら違うように書くのが当然ではないかと思うのである。

両方式の
主な違い
 





si shi
シャ sya sha
シュ syu shu
ショ syo sho
zi ji
ジャ zya ja
ジュ zyu ju
ジョ zyo jo
ti chi
チャ tya cha
チュ tyu chu
チョ tyo cho
tu tsu
hu fu
b,p,mの
前の「ん」
n
m

 ところが、ヘボン式には大きな問題がある。それは、これを作ったのがアメリカ人であるため、英語の読み方に従っているということである。chi は、英語では「チ」と読むが、フランス語なら「シ」、ドイツ語なら「ヒ」、イタリア語なら「キ」と読むことになっている。漢字の読み方が日本と中国と韓国でそれぞれ違うように、ローマ字の読み方も言語によって違う。その中で、なぜ特に英語に従うのかということになる。「勝つ」という動詞が「勝たない」、「勝ちます」という活用をするように、日本語では「たちつてと」を一つの系列としないと説明のつかないことが多い。ヨーロッパ各国が自分の言語に合わせてローマ字を使うように、日本も日本語に合わせてローマ字を使えばいいではないか、というのが、訓令式の論拠となっている。日本語の「たちつてと」が古くは「たてぃとぅてと」と発音されていたというのは、いまでは定説である。

 ヘボン式のさらなる問題点は、英語で区別しない音は、表記の上でも区別しない、ということである。たとえば、「ハヒフヘホ」は、「フ」だけが f で表されるが、実は「ヒ」の子音も、「ハヘホ」の子音とは違う音なのであって、ドイツ語では ch と書かれ、h とは明瞭に区別されている。ドイツ人に多い男子名ハインリッヒの「ヒ」である。「ニ」の子音もラテン系の言語ではnとは区別され、フランス語やイタリア語では gn、ポルトガル語では nh、スペイン語では ñ という特殊な文字でそれぞれ表される。フランスのエッセイスト、モンテーニュの「ニュ」である。

 言語とは約束事であるから、音の違いは言語によって別の音として認識される場合もあり、無視して一つの音として扱われる場合もある。ドイツ語の ch は、Bach の場合と Heinrich の場合では発音が違うが、ドイツ語ではこの違いは無視される。しかし、外国人が聞くと印象がかなり違うので、日本では Bach は「バッ」と呼ばれる。ドイツ人ラインバッハのアメリカでの子孫は英語にこの音がないため、「ラインバック」となる。阪神タイガースにいたことを覚えている人も多いだろう。

 阪神といえば、阪神時代の新庄選手の背番号の上には、SHINJYO と書かれていたが、長音を無視したとしても、訓令式なら SINZYO、ヘボン式なら SHINJO(大リーグではこの表記になっている)と書くはずなのでこれはおかしい。両者を混同した表記だといえよう。訓令式では、「しゃ」や「ちょ」のように小さい「ゃゅょ」を伴う音、つまり拗音は子音のあとに yo をつけるということで一貫している。外国語から見ると五十音図の同じ行で他と子音が違う字がイ段に多いことが分かるが、これは口の開きの小さいイという母音の影響を受けで変形(言語学では「口蓋化」という)したためである。

 「キ」の子音も口蓋化している。「キョ」などは、k に yo がついた音というより、ky(口蓋化した k )に o がついた音である。口蓋化したkの発音は英語国民には難しい。かれらの発音で「東京」が「トキオ」と聞こえるのはそのためである。

 Shinjyo という表記の場合、口蓋化した音を示す j を書くのなら、口蓋化を示す y をさらにつけ加えることは不要であるので、jyo はおかしい。なお、j を英語(および、この読み方のもととなったフランス語)のように読むのは、むしろ少数派である。日本をドイツ語では Japan (ヤーパン)というがこのように日本語のローマ字表記では y と書かれる音で読まれる例が多い。スペイン語にはまた別の読みぐせがあって、日本は Japon(ハポン)と読まれるし、サッカーの城選手もスペインでは「ホー」と呼ばれていた。

 私は、訓令式を支持する立場に立つ。パソコンのキーボードでは「ち」は ti と入力する。chi では能率が悪い。ただ、訓令式にする場合、すでに日本語に定着している「ティ」などの音をどのように表記するかを決める必要があるだろう。日本人が同じ音としているのが実は違う音だという例はまだまだある。

追記 日本語のローマ字表記は、パソコンへのローマ字入力法がヘボン式とも訓令式とも異なるものとなるなど、いっそうの混乱を起している。そこで、日本語のローマ字表記について、別稿の日本語のローマ字表記を考えるという記事で、ローマ字表記の統一案を提案してみた。あわせてお読みいただきたい。

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