日本語に「主語」はあるか?

 「日本語では、主語がよく省略される」という言い方をよく聞く。こういう言い方は、二つのことを前提としている。一つは、主語というものが本来不可欠なものだということであり、もう一つは省略という以上、省略しても意味が何も変わらないということである。ここでは、まずあとの前提を検討してみよう。

 上司が部下に「この仕事、やってくれないか?」と声をかけたとする。これに答えるときには、「やります」というのが普通であろう。しかし、これには「主語」らしきものがない。かといって、「私はやります」と言っても、「私がやります」と言っても、意味は微妙に違ってきてしまう。「私はやります」だと、「他の人は知らないが私はやる」という意味になり、誰かに手伝ってもらいたいようである。「私がやります」だと「自分がやって手柄を立てたいから他の者にはやらせないでくれ」といっている感じとなる。このことは、「やります」が「私はやります」の省略形でも「私がやります」の省略形でもないことを意味している。つまり、日本語では、「やります」は「私がやります」とも「私はやります」とも違う意味を持つ文だということになる。

(注)「私はやります」の「は」は主格を表示するものではない。この点については、「ぼくはうなぎだ」という言い方を参照されたい。

 明治以降、日本で学習がさかんになった英語やドイツ語、フランス語などの印欧語族の言語においては、「主語」は不可欠である。そのことを機械的に日本語にあてはめようとしたところから、「日本語では、主語がよく省略される」という言い方が生まれた。西欧崇拝の時代にあって、西欧で生まれた文法は普遍的なものであり、日本語にもあてはまるはずだという思いこみが、このような考え方を生み出したといっていいだろう。

 テレビのCMで、"Mary,it's Daddy!" という表現を聞いた。これを日本語に訳すと、「メアリー、おとうさんだよ!」ということになるだろう。菓子の袋に"It's delicious."と書いてあれば、「おいしいよ!」ということだ。英文法では、このような英文の中の it は「形式主語」といい、特に何らかを意味を持つものではない。"It's spring." は、単に「春だ。」ということを示しているのであり、何が春だというわけでもない。さて、こういった英文を日本語と比較してみると、どうやら英語の "it's" の部分が、日本語の「だ」と同じ役割を果たしていることが分かってくる。日本語では「だ」「だろう」「だった」など、さまざまな接辞を加えることで、多様な表現を生み出すことができる。日本語でも英語でも「春」とか "Spring." だけではいわばカタコトで、安定した文ということはできない。しかし、日本語では「春だ」というだけで十分に安定した文となる。これに対して、英語ではこのような場合の「だ」に当るものがない。そこにこそ、"It's spring."のように、「主語」が必要となってくる理由があるのである。

 ここで述べたことは、動詞を例にとってみれば、いっそうはっきりする。英語の動詞は、単独では命令の意味しか表さない。"Run." だけでは、「走れ」という意味になる。これに対して、日本語では、「走る」「走らせる」「走らせられる」など、接辞を加えることで多様な表現が可能になる。ところが、英語には、動詞にこのような多様な接辞がつくということはなく、多様な文型を組み立てることで、日本語にはある接辞の欠如を補っているのだと考えることもできる。「走る」「走らせる」「走らせられる」は、英語ではそれぞれ、"He runs.","He makes her run.","She is forced to run (by him)." ということになるだろう。 英語の場合、単独では「走れ」という意味にしかならない run が「走る」という陳述の作用を持つためには、どうしても "John runs."という具合に、名詞や代名詞との間に文型を組み立てることが必要になってくるのであり、そこに主語の必要性が生じてくるのである。

 英語では、主語がないと、動詞は陳述の作用を持つことができない。そこで、とくに主語にあたるものがないときにも、主語が必要となる。「大根は根を食べ、レタスは葉を食べる」を英語に訳すには、they とか we とかいう主語を補うことが必要になってくる。この場合の they とか we というのは、人間一般ということであり、何も中身がないので、日本語では当然、誰がということを示す必要はない。もし「彼らが」とか「私たちが」といったのでは、限られた人たちの特殊な食べ方ということになってしまうであろう。

 さらに、印欧語族の言語に主語が必要な理由として、主語が何かを決めないと動詞の形が決められないということが挙げられる。英語の場合は、それがかなり簡略化されていて、現在形としては eat か eats のどちらかであるが、ラテン語などでは6つの語形から選択しなければならない。人称に関係ない動詞の語形(不定形)は、そのままでは陳述の作用がないため、無理にでも主語を設けなければならないのである。itやtheyなどの代名詞が多用されるのも、主語をいちいち名詞で繰り返していては煩雑になってしまうからであろう。

 「文には必ず主語がある」というのは、動詞の場合、動作主が必ずいるはずだという考えがあるからでもある。しかし、これは、意味の次元のことを文法の次元のことと混同した考え方である。「チリではスペイン語を話す」という日本語を英訳すると、"They speak Spanish in Chile." か、"Spanish is spoken in Chile."のどちらかになるだろう。後者の場合、by them というのは、まずつけられず、この文の主語はあくまで Spanish である。しかし、Spanish が動作主でないことは誰の目にも明らかだろう。「主語」をあくまで文法上の概念だと考えたとき、日本語に主語を設定する理由はさらにまた一つ失われる。

 もちろん、日本語でも、「花が咲く」というときの「花が」のように、英語などの主語にあたる語を「~が」という形で明示するときもある。しかし、「暖かくなってきた」というような場合に英語が it という形式主語を設けるような文法的な理由は日本語にはない。したがって、「花が咲く」というときの「花が」も、日本語では「主語」とは考えられず、「主格補語」だとするのが素直な考え方だと思う。「補語」というのは、文字通り「(必要な時だけ)補う語」という意味である。文をつくる上で不可欠な「主語」というものは、日本語にはない。「日本語では主語がよく省略される」という言い方は、「日本語には主語は無い」と言っているのと同じことである。省略できるようなものは、そもそも「主語」とは言えないのである。

 この「が」にしても、英語などでいう主格のみを示すものではなく、動詞などで示された事態を引き起こしたものを示すものであり、いわば「由来格」とでもいうべきものだという人(山口明穂『日本語の論理』など)もいる。このような考え方は、「水が飲みたい」の場合の「が」を到底「主語」とは考えられないということから来ている。水が実際にあるか、話し手が水を思い浮かべたことが、「飲みたい」という気持ちを引き起こしたのであり、馬がいることが、「走る」という事態を引き起こしたことを「馬が走る」と表現するのと同じことだという。

 日本語にも主語があるはずだという思い込みは根強い。意味の取りにくい文章に対して、「主語と述語が整っていない」などという批評が行なわれることもあるが、これは誰の行為かを日本語らしい手段で示せばいいことで、主語のない日本語に主語を求めても意味がない。小学校から高校にかけての教科書や副読本、問題集などでも「主語」という語は目立つ。古文の試験問題などでも、「主語を補ってつぎの文を現代語訳せよ」というような問題が出るのだが、これは「~したのは誰かを示して現代語訳せよ」とでも言えばすむことである。

 日本の「国語」教育は文学中心であり、教科書を編集する人に言語学の知識のある人は少ない。哲学者などの門外漢が言語について書いた文章を平気で教科書に載せたり、日本語にも主語を求める一方で次のような主格表示のない文章を名文として取り上げたりするのも「国語」教育の中枢にある人に日本語への理解のある人が少ないためである。これでは子供が混乱してしまうだろう。

 親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。
(夏目漱石『坊っちゃん』)
 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
(川端康成『雪国』)
 恥の多い生涯を送ってきました。
(太宰治『人間失格』) 


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